読み物・コラム
遠州織物の聖地 初生衣神社の成り立ちと歴史

遠州織物の聖地といわれる初生衣(うぶぎぬ)神社と、その歴史についてご紹介させていただきます。
目次
浜松市浜名区三ヶ日町と絹との関わり
古来、三河(愛知県東部)は上州(群馬県)や信州(長野県)と共に良質の絹を産することで知られていました。
西暦758年(天平2年)の正倉院雑物請帳には三河の絹が最も良質であると記されています。
律令制度における税制度「租(そ)庸(よう)調(ちょう)」の中で布が納められていました。
持統天皇の御代686年に、養蚕が盛んであった新城市鳳来町の大野に服部大明神が祀られました(その神社は後に大野神社に合祀されます)。
701年には大宝律令が発令され、民に班田が与えられると共に土地には桑や漆を植えることが義務付けられていました。
蚕(かいこ)は良質な桑の葉を食べて育ちます。
蚕の幼虫は蛹(さなぎ)になる際に頑丈な繭をつくり、その繭(まゆ)から取られた糸が絹糸(シルク)になります。
三河・三ケ日の絹糸は「赤引きの糸」として重宝されていました。
江戸時代末期の開国により外国との貿易が始まると、絹糸は重要な輸出品として生産が奨励されます。
世界遺産の富岡製糸場は、その象徴として挙げられます。
三河地方や浜松市浜名区三ケ日町の平坦地は、昭和の初めまで桑畑が多くありました。
桑の木になる実はマルベリーという果実になります。
昭和以降に、その肥沃な土を活かして今のみかん畑に変わり、有名な「三ヶ日みかん」が登場します。
浜松市浜名区三ケ日町と伊勢神宮との繋がり
伊勢神宮の神領「神戸(かんべ)」は、大化の改新以前によりこの地にありました。
三河と遠州(静岡県西部)は、伊勢湾の航海の安全もあり神戸が多くありました。
日本書紀の第十一代 垂仁(すいにん)天皇の記述には、三ケ日町は浜名神戸として記載されています。
初生衣神社の前にある橋は神戸橋(ごんどばし)といい、字名(あざな)は神戸といい、おんぞ祭りは神戸の人たちの働きによって運営されています。
神戸には、御園(みその)と御厨(みくりや)があり、御園は台地の畑、御厨は水田地帯とされます。
初生衣神社の成り立ち
平安時代に、濵名総社神明宮が浜名神戸から伊勢神宮に絹の布を納めていました。
久寿2年(1155年)近衛天皇の時に、三ケ日町鵺代の領主であった源三位頼政(げんざんみよりまさ)の招きにより、神服部家の先祖(初生衣神社の宮司)がこの地に来ました。
源三位頼政は、平家物語の中の鵺(ぬえ)退治に登場する人物です。
1180年に以仁王(もちひとおう)と共に平家に対し挙兵しますが、宇治橋の戦いで敗れ自害します。
しかしこのことが源頼朝の挙兵につながり、平家打倒、鎌倉幕府成立のきっかけとなりました。
この鵺退治の時に、神服部家の先祖は源三位頼政の助力をします。
後に安倍晴明を祖とする陰陽師安倍氏との争いに敗れ、三ヶ日の地にいるようになります。
天棚機媛命を祭神とした初生衣神社を創立し、神機織殿において神御衣(かんみそ)として和妙(にきたえ)を織り伊勢神宮へ献納するようになりました。
承元3年(1209年) 土御門(つちみかど)天皇の御代に、伊勢神宮神御衣調進の勅諚(天皇の仰せ)が出されました。
神服部家の先祖は代々、三ケ日町岡本の神戸を管理する役割で、その妻が織殿で絹布を織ったとされています。
織殿にある織機は、原始的な構造となり、類似の形をしたものは、海の正倉院といわれる世界遺産の沖ノ島からも模型が出土されており国宝となっています。
神様の布を祀る祭典「おんぞ祭り」
「伊勢の神宮に神御衣を収める」という、初生衣神社の役割に基づき4月第2土曜日に行われる例祭です。
当日は朝早くからおんぞ祭りに関わる濱名惣社神明宮の清掃をし、神明宮内の天棚機媛命社を清めます。
初生衣神社から神御衣が運ばれ、お祓いした後に天棚機媛命社(アメノタナバタヒメノミコトシャ)に納めます。
午後になると、おんぞ祭りが始まります。
初生衣神社「おんぞ奉賛会」が、「太一御用」「おんぞ奉献」「皇大神宮神御衣」などと書かれた幟旗をたて、行列をつくって濵名総社神明まで参進します。
摂社である天棚機媛命社に納めてある絹織物を唐櫃に納め、初生衣神社に戻ります。
昔も神御衣を伊勢の神宮に納める際には農民たちが送り出すのが慣例となっており、昔の儀式の形を今に残していることが分かります。
祭りは近隣から多くの人が集まりますが、厳粛にかつ盛大に執り行われます。
「おんぞ祭り」は、令和2年3月23日付で、浜松市無形民俗文化財に認定。
浜松のお祭り50選にも、選定されています。
神御衣を伊勢神宮へ届けるまで
鎌倉時代になると武士の政治となり、税制を改めて貴族への贅沢品を禁止したので承久の乱(1221年)以降は、養蚕業は衰退していきます。
神領は武士の領国支配となり、宝徳年間(1450年頃)には神御衣の献納は一時中断されました。
その後、浜松城主になった徳川家康により天正元年(1573年)に初生衣神社は税を免除され、「初生衣(うぶぎぬ)調進怠るべからず」との沙汰を受けました。
江戸時代になり、世の中が安定してきたことで元和元年(1615年)大阪夏の陣の頃に、伊勢神宮への献納は再興されました。
織殿で織られた神御衣は、唐櫃に収められ浜名湖を船で渡り新居の大庫戸から伊良湖を経て、海路にて伊勢に向かっていましたが、当時の地震の影響などで、本坂峠を通る道中に変りました。
江戸時代の記録によると、神目代家の初生衣調進之上献納の手順が下記の様に記されています。
1.毎年11月1日に、三州大野村の鈴木伝右門方より糸を入手し、道中の山の吉田の田中家にて小休止し、瓶割峠(かめわりとうげ)を越えて初生衣神社へ運ぶ。織られた布は名惣社神明宮本殿にて保管される。
2.織殿にて織った布は、4月13日に姫街道本坂峠を越え高山(すせ)村与八方にて小休止し三州牛川稲荷社(現熊野神社)まで運ぶ。
3.牛川稲荷社にて吉田の役人に渡し、湊町神明社にて羽田野氏が預かり、役人お供の上太一用の大木札をたてて「出舟勢州」して伊勢に送る。
4.吉田役人に渡すまでは、岡本神戸の人々がお供をする。
この時、吉田宿では「おんぞ祭り」として女性たちが着飾り頂い踊ったと伝えられています。
当時は珍しい婦女子の祭りとして東海道に知られた祭りでした。
おんぞ唄の一番は「おみすヨイヨイ出どこは岡本さまよな。田町お宮へ踊りこむ。」となっています。
明治になり時代の変化とともに祭りは行われなくなり、初生衣神社の伊勢神宮への献納も明治18年に中断されました。
明治になるまでは、各地の大名や天領の藩主や代官は、その土地を所有しているのではなく年員の徴収権を持っていました。
五公五民という言葉がそれを表しています。
明治4年(1871年)の廃藩置県を受けた明治6年の地租改正により、米などの物納ではなく金銭を税として国に収めることになった影響を受けてのことです。
初生衣神社は、氏子を持たない景敬神社ですので、その後、神服部家は岡本の地を離れました。
戦後の昭和24年に神服部家の先代が三ヶ日へ戻るまでの間は、初生衣神社現宮司鈴木栄男の曽祖父岡本八幡宮鈴木左内宮司、祖父鈴木式宮司が初生衣神社の宮司を務めました。
その後の昭和43年に、山本又六氏がおんぞ奉賛会の初代会長に就任され、遠州の織物業者の方々のご尽力により初生衣神社のおんぞ祭りが再興され湊町神明社とともに、伊勢神宮への献納が行われるようになりました。
参考文献:「三河 絹の道」 大林卯一良 著、「伊勢神宮領荘園記録」 南出真助 著、「三ヶ日町史」 、「服部神社御由緒の文献類聚」、「遠江国の神明社の研究」 鈴木栄男 著
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